Vol.6 寄付者インタビュー

八木 貞憲さん

YAGI SADANORI 1935年愛知県生まれ。1958年に京都大学経済学部を卒業後、大阪船場のウール商社・松本商店に入社。1961年より大阪金属工業(現・ダイキン工業)で営業、企画などを担当。1972年、空調機専門の自前販売会社の設立を提案、日本初の単一商品の専門販売会社設立に至る。1989年取締役、1994年常務取締役。2003年の退職後、大阪産業大学大学院の非常勤講師に就任。2004年には北京で開催された北東アジア・アカデミックフォーラムで経済分野のスピーカーを務めた。2001年より会員制社交倶楽部である一般社団法人大阪倶楽部の会員。

先見性をもって花形産業であった
繊維業から空調機メーカーへ

 大阪最古の社交倶楽部「大阪倶楽部」で定例午餐会に参加するなど充実した毎日を送る八木貞憲氏は、42年間働いたダイキン工業で常務取締役まで務め上げ、退職後は大阪産業大学大学院で非常勤講師として教鞭を執った。
そんな八木氏のビジネスマン時代は、先見性を強みに突っ走った日々であった。
 1958年に京都大学経済学部を卒業してウール商社に入社。3年目、花形産業であった繊維業はまだ好調であったが、将来性に疑問を抱いた八木氏は、たまたま新聞広告で見つけた大阪金属工業(現・ダイキン工業)に応募して、業務用エアコンの営業マンとなる。
「非常にハードな経験でしたね」。
 尼崎の工場エリアを担当し、飛び込み営業をしては門前払いされる毎日だったという。「工場を冷房する発想はなかったですから」。
 それでも着実に実績を上げ、31歳の時には、提携先の台湾企業に販売指導のために出向。現地の営業マンとバイクで駆け回るとともに、自らは日本企業に足を運び、受注をいくつも獲得した。提携先企業の社長から感謝状が授与され、34歳で営業企画課長に昇進した。

自前の販売会社設立を提案するなど
持てる力を積極的に発揮

 しかし、八木氏の最大の功績は、自前の販売会社設立を提案したことだろう。
 1970年、ダイキンは住宅用エアコンの専門工場をつくり、家電店の開拓に戦力を投入したものの、当時の家電店はほぼ専売店。系列の締め付けが厳しく成果が上がらなかったという。冷夏となれば、さらに売れない。
 「よそと同じことをしてはダメ。かねて自前の販売網をつくるべきと考えていました」。
 1972年3月に提案した時は一読されたまま引き出しにしまわれていたが、その年が冷夏となったことで、上司も腰を上げて設立へ。単一商品の専門販売会社をつくったのはダイキンが初めてだった。
 「なかなか軌道に乗りませんでしたが、お客様第一でサービスを徹底させたことで、業績が伸びていきました」。
 その後は国内にとどまらず、海外でもダイキン100%出資の販路が各国に構築され、会社発展の牽引力となっているのだ。

京大時代に培ったのはビジネスマン
必須の経済知識と先見性

 高校生の時に湯川秀樹博士の講演を聴いて京大に関心を持ち、愛読書の著者・翻訳者に京大文学部の教授陣がずらりと名を連ねていることを知り進学を決めた。
 「1年目の宇治分校は田舎で、勉強しかすることがなくて。2年目の吉田分校では誘惑も多くなって、学問はややおろそかになりました」。
 そう謙遜する八木氏だが、受講した講義名や教授の名前、その内容まで、今でもスラスラと口をついて出てくる。
 「青山秀夫先生の『経済原論』で経済全体の動きが俯瞰できるようになり、松井清先生の『国際経済学』で国際取引のメリットを知った。木村和三郎先生の『賃貸対照表論』はビジネスマン生活に大いに役立ちました」。
 旺盛な知識欲と経済に関する幅広い知識、知識をもとに生まれる先見性。「京大時代に培ったこれらが、ビジネスマン時代を支えたことは間違いないですね」。

京大で学べたから今がある
愛すべき京大の魅力が増すことを期待

 「80年間の充実した人生を送れているのは、京大時代があったからだと思っています」。
京都という学生を大切にしてくれる地で学び、多くの師と畏友を得た。ダイキンでは、京大出身の営業マンは八木氏ひとりで、多くのチャンスを与えてもらった。
 だからこそ、ささやかな恩返しのつもりで、京都大学基金にも寄付をしたし、思い入れのある母校だからこそ、期待も大きい。
 「京大を志す学生が増えてほしい。そのためには、学生たちが憧れる研究者を多く輩出し、魅力ある大学になることが必要ですね」。
 もうひとつは、京大と科学技術の発展のための有意義なベースとなるよう、京都大学基金を大きく育ててほしいということだ。
 「どちらも京大が総力をあげて取り組んでいただくことを期待しています」。

大阪倶楽部で所属する写真同好会の仲間に撮影してもらった一枚(喫茶室にて)


(取材日:2016年5月)