Vol.11 寄付者インタビュー

SUGIO SHINTARO 1937年旧京城市生まれ。1960年京都大学農学部林学科卒業。厚生省国立公園部、鹿児島県、環境庁を経て、1972年株式会社プレック研究所を創業。IFLA(国際造園家連盟) Japan会長、日本イコモス国内委員会副委員長、一般社団法人日本造園修景協会会長、イコモス・イフラ(文化的景観学術委員会)副委員長などを歴任。

Q 1950 年代後半、どんな京都大学時代を過ごされましたか?

 「とにかく忙しかった」に尽きます。大阪の千里山から長時間かけて通学していたのですが、2 年目に宇治分校から吉田分校に移って少し余裕ができたので、まず交響楽団に入部しました。続けて、カードゲームであるコントラクトブリッジのクラブを創設したほか、関西造園学生会議を主催し、都市計画についてディスカッションするタウンデザイングループという自主ゼミも立ち上げました。私のこの 実績を知った先生から射撃部創設を依頼され、ライフル購入の手続きなども自ら手がけました。5 つのクラブや会の掛け持ちでただでさえ忙しいうえ、当時、日本全体が貧しくて学生はもちろんお金がありませんから、楽器を買うのも一苦労でした。当時はOB に寄付をお願いすることはなく、自分たちでダンスパーティーを開催しては資金をコツコツ集めていたものです。

Q そうした経験が、起業にも役立ちましたか?

 協力者を募ったり資金を集めたりした経験はたしかに役立ったと思いますが、それよりももっと助けられたのは、"京大"を介しての人間関係と信用力でした。当社は世界遺産に関するコンサルテーションも手がけていますが、きっかけは京大の先輩に誘われたから。世界遺産の審査員を務めたこともあり、これも、京大のネットワークのおかげです。
 一方、学生時代に始めたことが今につながり、人生を豊かなものにしてくれていることも、大きな財産です。交響楽団で担当していたフルートは、ずっと辞めていたものの80歳になってから再開しましたが、仲間たちも何かしら楽器を続けて老後の楽しみにしています。フルートの経験から30年ほど前にお囃子の笛を始め、以来、代々木八幡宮で子どもたちに教えています。渋谷区指定無形民俗文化財でもある代々木囃子保存会の会長も務めています。また、資金集めのダンスパーティーでは苦戦したダンスは妻の影響で20年近く続けていますし、コントラクトブリッジは今も公式戦に出場しています。
 もちろん大学で研究し、仕事にしている造園については、定期的に論文を発表しています。
 仕事も人生も、京大時代の経験が今に活かされていて、感慨深いものがあります。

Q 「環境問題」に着目した起業は
  半世紀前としては先見的だったのでは?

 ニクソン大統領が、環境汚染への非難の高まりを受けて、1970年にアメリカ環境保護局(EPA)を設立したという報に接したことがきっかけでした。アメリカの国会資料などを調べてみると、公共事業については環境アセスメントが義務づけられるとの記載があることを知り、日本で真っ先に環境アセスメントに取り組もうと考えたわけです。また、1980年代に海外では自然に近い環境で飼育を行う動物園ができ始めており、これもすぐに設計事務所にコンタクトし、日本に取り入れました。
 先見の明があったというよりは、アンテナを張り巡らせ、小さなヒントや情報を見逃さず、京大時代に養った行動力で即実行に移したことの結果でしょうね。

Q 最後に、京大生へのメッセージをお願いします。

 発展や平和への希望が込められた令和の時代を切り拓くのに欠かせないのは、やはり「創造力」だと思います。となれば、京大生の力の発揮しどころですね。京大生の強みは、ユニークな発想力ですから。創造力は、教育によって養うのが難しいものですが、豊かな自然と歴史に囲まれた京都だからこそ、培われる力はあるはず。「新しいことを生み出すべき人材である」という自覚を持って、新時代に活躍してくれることを期待しています。

(取材日:2019年3月)