Vol.17 寄付者インタビュー

KAWAMOTO YUICHI 1955年福岡県生まれ。1978年京都大学法学部卒業。同年、日本興業銀行入行。業務部副部長を経て、統合後みずほ銀行執行役員市場金融部長などを歴任。 2008年ゼブラ入社、2012年より現職。

Q 京都大学時代の思い出などをお聞かせください。

 父親が転勤族のため小さい頃は東京、中学は名古屋、高校は大阪で過ごしたのですが、生粋の関西人ではない私が京都大学を選んだのには2つの理由がありました。旧制第三高等学校(三高)と京都へのあこがれです。
 三高への興味は、中学生の頃、田宮虎彦の「三高もの」と呼ばれる小説を読んだことがきっかけです。私が入学した1974年は、旧制から新制に切り替わって25年経っていましたが、旧制時代の先生も多くいらして、三高時代の雰囲気に触れられるような気がしたものです。
 京都好きの学生は多く、私も入学して「ああ、これで京都が生活のベースになった」とうれしかった。大文字や鴨川が日常にあった、思い出に残る4年間でした。ちなみに、社会人 1年目の配属先は京都でしたが、ビジネスフィールドとしての京都は非常に難しかったですね。
 学園紛争の名残から試験が中止になったり、学外でゼミを行ったりという環境の中で、特に目的意識を持たず、何かに打ち込むことなく、ほどほどに勉強して遊び、中途半端に過ごした京大時代だったと思います。今になって、教養部の授業はもったいないことをしたと後悔しています。著名な先生方による講義など、もっとまじめに取り組んでいれば、どれほど自分の糧になったことでしょう。
 就職についてもそんな調子で、漠然と関西系の企業を考えていたのですが、ゼミの先生が薦めてくださった企業は、その年の採用がないことを知り、方向性を見失いました。結局、親しかったゼミ仲間が金融業界を目指していたから自分もなんとなく銀行へ、というのが実情です。

Q 東京で働く立場から見た京都大学は、どんな印象でしたか?

 私自身、日本興業銀行についての知識をあまり持たないまま就職が決まったように、東京の学生が徹底的に業界のことを勉強しているのに対し、京大生は世間に疎いところがありました。自分が採用面接をする側になっても、その印象はあまり変わりませんでした。世慣れていないぶん発想が自由で、それがまた「変わり者」と捉えられるのでしょうが。
 京都の後はほぼ東京勤務で、東京にいれば首都圏の大学のことはよく見えます。首都圏の大学教員は審議会などに招聘され、世間との接点が多いだけに、アウトプットも社会との関連が強いものになる、という印象を受けました。しかし、東京では京大の話が聞こえてくることがほとんどない。中央から距離を置き、世間の交わりとは別の次元でアウトプットすることこそ京大の強みなんだ、と勝手に想像をしていた一方で、産学連携を首都圏で積極的に推進して存在感を高めてほしいという思いはありました。

Q 創立125周年に寄せて、京都大学への期待や京大生への
  メッセージをお願いします。

 新型コロナウイルス騒動では、関西圏がクローズアップされることが多かったと思います。特に、大阪府知事の迅速で戦略的な対応に注目が集まりました。日本は東京に一極集中しすぎていて、今回のような危機に直面した時に一極集中では危うい。シンクタンク的な役割を関西圏の大学などが果たすべきであり、その筆頭はやはり京都大学であってほしいですね。
 私たちの時代は力を抜いて、いわば"軽く流して"大学を卒業できたし、それで就職しても問題ありませんでした。企業内教育によって鍛えられ、1年ほどは「戦力にならない」期間が認められていました。
 しかし、利益やスピードが強く求められるようになっている昨今、企業には教育に投資する余裕がありません。当然、教育する力も落ち、"出来合い"のものを求めるようになる。新入社員に対する要求が高くなり、「何を学んだのか。何ができるのか」がつねに問われます。
 今、企業が求めるのは「自ら学び身につけた知識を使いこなせる人材」ですが、京大こそ、そういう人材が育つ絶好の環境ではないでしょうか。自由の学風のもと、さまざまな施設、周囲にあふれる"知"をどんどん活用して知識を広げ、柔軟に発想していける。自分自身の反省を込めて申し上げますが、学生の皆さんには京大のことをよく知り、自覚と意欲を持って自発的に貪欲に学んでいただきたいと思います。

(取材日:2020年5月)


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