Vol.29 寄付者インタビュー

TOSHITA TATSUHIKO 1956年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部卒業。同年、伊藤忠商事株式会社入社。1995年ドイツ・デュッセルドルフ駐在。2001年伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社に転籍。2010年執行役員、2013年取締役 兼 常務執行役員、2016年取締役 兼 専務執行役員、2017年代表取締役副社長、2020年より現職。

Q アメフト部での活動をはじめ
  どんな京都大学時代を過ごされましたか?

 現役の時に大学受験に失敗した後、父と京都を訪れる機会がありました。父は京都大学の卒業生で、普段は無口なのに下宿していた場所を楽しそうに教えてくれた姿が印象的でした。それで改めて京都大学を意識するようになり、2年目に挑戦して合格できました。京都大学は、私の好きな『君は君、我は我也。されど仲よき』という武者小路実篤の言葉そのままの雰囲気でした。
 入学してすぐにアメリカンフットボール部に入部したのは、中学高校ではバスケットボールをしていたものの、屋外のスポーツをしたいと思っていたからです。京大アメフト部は私が入学した前年の1974年に水野弥一監督が就任、その指導方法が注目を集め、力を伸ばし始めていた時期でした。
 水野監督や当時のコーチ陣が徹底されていたのが、バックキャスティングの考え方です。目標となる未来を設定しておき、そこから振り返って現在すべきことを考える方法で、すべてのチームにとって試合に臨む以上、目標は「試合に勝つ」ことです。では勝つために何をすればいいのか?
 当時は経験者が少なく練習時間にも制約のある中で、未経験者をいかに早く試合に出せるか、つまりチームの底上げが重要でした。選手の健康管理や効率的な練習方法、リクルーティングも含むすべてにおいて、既存の考えに囚われず、勝つためにベストな方法を徹底して実行することが必須だったのです。
 「『勝ちたい』という希望だけでは勝てない。『勝つ』という意志に変えることが重要なのだ。変えた瞬間からどうすべきかという道筋が見えてくる」。水野監督の教えの中で強く心に残っている言葉です。意志が固まれば覚悟が決まり、自分の行動を律することができます。
 「関西学院大学に勝つ」という私たちの夢が実現したのは1976年、私が2回生の時ですが、実は1回生の時に肉薄したことがあります。ほぼプラン通りの試合で、勝利が目前であった第4Qに私の目の前でタッチダウンを決められ、逆転負けを喫しました。この時の悔しい経験がアメフトを続ける原動力となったことはたしかです。

Q 5回生ではコーチまで務められましたが、
  京都大学やアメフト部での経験が
  その後の人生に活きていると思うことは?

 専門課程に進んでから、自分はどんな人生を歩みたいのか、漠然と進路を悩むようになりました。答えを出せないまま、アメフト部への恩返しも頭から抜けず、最終的に留年することにしました。内定していた就職先を断り、研究室も移籍。多くの方にご迷惑をかけてしまいましたが、最後は「目前のなすべきことを一生懸命やることで、自分を見つめ直していくしかない」と吹っ切りました。
 アメフト部は当時、伝統的に大学院生がコーチを務めていたので、留年した私も志願したのですが、後輩たちをコーチする側でチームに貢献しようとしたことが今に活きる貴重な経験となりました。アメフトというスポーツは体の大小、足の遅速、俊敏性や持久性などそれぞれが持つ異なる能力を伸ばしながら、各ポジションで" 勝ち" というゴールを目指して力を発揮します。これは組織運営でも同じです。
 それが理由かは不明ですがさまざまな企業の経営者に同世代のアメフト部出身者の方が多くおられます。大学の枠を超え一つの競技を通して共通の話題で多くのご縁を頂戴し、人間関係が広がっていることも財産となっています。

Q 京都大学や京大生へのメッセージをお願いします。

 自己を確立しているから他人にとらわれず、互いの生き方を尊重し、自分の目指すものに突き進めるという京都大学の特徴はすばらしいものです。一方で、自分の世界だけで満足しがちな側面があることもまた事実。大切なのは「発信する」ことではないでしょうか。考えを言葉にして発信すれば行動が伴わないといけないし、責任も生じます。発信によって反対なり批判なり周囲の反応があり、それによって気づきや学びを得て成長につながっていきます。発信を行動に変えて学び成長していく、その積み重ねが大切なのだと思います。
 学生の皆さんは、ぜひ早い段階から「自分は何のために、どう生きるのか」について考えてみてください。答えは出なくても「考える」ということに意味があります。人生を考えることで志を高く持て、チャレンジする意欲が湧いてくるはずです。

(取材日:2022年2月)


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