Vol.30 寄付者インタビュー

TANEDA YASUO 1967年奈良県生まれ。1991年京都大学薬学部卒業、1993年京都大学大学院薬学研究科修了後、製薬会社で糖尿病薬やエイズ薬の開発に携わる。1998年結婚後、妻の実家の家業に従事。2011年に法人化し代表取締役に就任。

Q どんな京都大学時代を過ごされましたか?

 バブルの真っ只中、アメフト部の黄金期という高揚感に満ちた京大生時代でした。車を乗り回すなど派手な学生も多かった。一浪した私は現役で入学した同級生に教わって要領よく単位を取得し、サークル活動を楽しんでいました。
 薬剤学研究室に所属してからは一転、忙しくなりました。一晩中、サンプルを90分おきに交換してデータを集めることもしばしば。4回生の終わりには学会発表をするなど、学部生の頃からレベルの高いことを経験させてもらいました。
 実は、京都大学で自分の思わぬ能力を発見したんです。"マネジメント力"とでも言うのでしょうか。テニスサークルの合宿では、格安にしてもらえるようバス会社や宿と交渉。研究室旅行で伊勢に行った際は、船好きの教授のために船を借りて海女さんに実演してもらったこともあります。自分で言うのもなんですが、そうした企画力や交渉力は抜群だったと思います。

Q 卒業後、製薬会社勤務を経て京鹿の子絞の
  世界に入られた経緯は?

 日本たばこ産業が開設した医薬総合研究所に就職して新人の頃から優先順位の高い研究テーマを担当し、海外にも行き、ここでも貴重な経験をさせてもらいました。
 結婚を機に退職、妻の実家だった京鹿の子絞の老舗メーカーに入りました。若さゆえか、まったく違う世界に飛び込むことに迷いはなく、「何でもできる」と思っていました。
 研究所時代、同期の中でいち早く昇進したのは、契約のとりまとめなど交渉力が評価されたから。京大生時代に発見した力が活かされたわけですね。ですから、「研究員を続けるよりは」という思いがあったのかもしれません。
 とはいえ、入社後、繊維業界の大変さを思い知りました。職人の高齢化と後継者不足は深刻で、国内の生産現場は減る一方です。会社を維持するためには、売り上げを伸ばすことと生産現場を維持することの両面が必要ですから。

Q 今後、目指すことをお聞かせください。

 京鹿の子絞の「技術を残す」ことに尽きます。当社は髪飾り屋として創業、和装小物屋へと変遷して今まで続いてきました。だから、製造するアイテムは時代に応じて変えればいい。
 ただ、絞りは技術そのものが難しく手作業も多い。当社では部分的な機械化を進めていますが、一つ、活路として期待していることがあります。京都市が取り組む「伝福連携」、つまり伝統産業と福祉の連携です。発達障害などさまざまな障害を抱える人たちに絞りの技術を体験してもらったのですが、彼らの能力には驚かされました。作業は丁寧で正確なうえ、集中力と持続力がすごいんです。
 江戸時代の作品は非常にすばらしく、我々の技術では追いつけないのではないかと諦めにも似た思いを持っていたのですが、希望が湧きました。伝福連携のような取り組みが社会に広がり、彼らの能力を活用できれば、技術を後世に残せるかもしれません。技術など基本的なところは変えず、変えられるところは変え、なんとしてでも生き残ろうと思います。
 一方で、新分野展開として京都ブランドコスメの製造販売の準備を進めています。事業再構築補助金に採択され、薬剤師資格があるので化粧品製造販売業許可も取得できました。過去の学びがやっと今につながった、というところでしょうか。
 同時に、10年以上理事を務める公益社団法人京都府物産協会(京都のれん会)の活動を通して、絞りをはじめとする京都の伝統産品の魅力発信にも尽力したいと考えています。

Q 京都大学への期待や京大生へのメッセージをお願いします。

 京都大学の吉田光邦先生が40年以上も前に出された『京鹿の子−美と伝統』という本は産業史としても価値あるものですが、そうした記録や研究はほとんどありません。品質や技術は世界トップクラスとされたシルクについて研究する繊維学部などは姿を消しつつあります。けれど、京都にある大学だからこそ、伝統産業について研究し、技術を担保してくれる拠り所であってほしいと思います。
 多様な人との出会いや経験が柔軟な思考につながるもの。最近の大学生は真面目で"遊び"がないと感じますが、学生の間にこそ出会いと経験を大切にして、枠にはまらずチャレンジしてください。それがきっと将来につながるはずです。

(取材日:2021年12月)


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