Vol.35 寄付者インタビュー

SAKAMOTO NORIYUKI 1934年東京都生まれ。1953年日比谷高校卒業。1959年京都大学経済学部卒業、丸善石油(現・コスモ石油)入社。1963年、家業の吉田電機株式会社(現・ワイ・デー・ケー)に入社。専務取締役を経て1978年より代表取締役社長を務め、現在は最高顧問。

Q どんな京都大学時代を過ごされましたか?

 通っていた東京の高校は6割くらいが東京大学に入学する進学校でした。私の成績は真ん中くらいなので、なんとか受かるだろうと思っていましたが、2回失敗しました。本番になると緊張してしまうんです。
 2浪目の時、京都大学医学部生だった叔父が「気分転換に来たらいい」と声をかけてくれてしばらく滞在したのですが、「いい場所だな」と。父も卒業まで半年を残して退学したものの、京都大学農学部に通っていたこともあり、京都大学を受けることにし無事に合格することができました。
 1回生は宇治分校でのんびり過ごしましたが、2回生で吉田分校に移ってからアイスホッケー部に所属しました。高校時代、スケート部を創部して冬になると信州の湖に滑りに行っていたのですが、京都大学では同学年でスケートができる人はほとんどおらず、体育の授業でスカウトされました。以来、部活漬けの日々です。当時、平安神宮の近くにあったリンクで練習し、夏場は体力づくりをしたり、板の上に石鹸水を流してシュートの練習をしたりしていました。
 私は 3回生から中心選手となり、主将を務めました。強豪校は私立大学がほとんどで、旧帝大勢はインカレになかなか出場できません。私が主将の時に出場しましたが、善戦したものの1 回戦で敗退してしまいました。ただ、スポーツ紙に「京都大学主将の坂本のスケーティングは光っていた」と書かれたことはうれしい思い出です。
 実は入部してすぐ会計担当に任命されたのですが、ふたを開けてみればリンク代も滞納しがちで、それではダメだと私が本格的に資金集めに奔走することになりました。当時、資金集めといえばダンスパーティーが定番でしたが、私は新たにOBへの寄付依頼を始めました。1934(昭和9)年に創部された歴史ある部で、活躍されているOBの方々も多くいらっしゃったので、東京に帰省するたびに寄付依頼に回り、幹事となってOB会を開催したりしました。
 練習よりもお金集めの苦労のほうが大きかったのですが、その経験が社会人になってから大いに役立つことになりました。

Q 部活での経験がどのように活かされたのでしょうか?

 京都大学を卒業して石油会社に就職し、海運会社の営業担当となりました。4 年間勤務した後半は、つねに売上1位を維持していました。
 学生時代に寄付集めをしていた経験から学んだのは「人づきあい」の大切さです。こまめに連絡をとり、足を運び、担当者の趣味につきあい、担当者以外の事務員の方とも親しくしながら信頼関係を築く。それに尽きます。
 28歳の時に家業に入ったのは、職人気質が色濃く残る雰囲気の中で若手社員には窮屈な面もあり、同世代の私に入社してほしいとの要望を受けたものです。
 当社は精密機械加工から始まり、通信機器、コンピュータ、半導体製造装置の製造と、時代の移り変わりとともに事業の転換や海外拠点の設立など事業の拡大を図ってきました。お客様第一主義を基本として、ニーズに合わせて技術を先取りしながらお客様のお手伝いをすることで、当社も一緒に発展してきました。
 とはいえ、順調なことばかりではありません。3~5年ごとに不況が訪れ、リストラを余儀なくされたこともあります。資金繰りの苦労はやはりつきまといました。でも、銀行の担当者に「坂本さんが言うなら仕方ない」と言っていただくこともあり、人づきあいを大切にしてきたことで助けられた場面は多くありました。

Q 経済学部同期会の幹事をずっと続けておられるそうですね。

 1回生の時、東京から来たという理由で級長を任されて以来、昭和 34 年卒業にちなんで命名した「山紫会」の幹事役を務めています。約200人いる同期会は毎月、東京と大阪で交互に開催しており、毎回20人ほどが集まります。68年間続いているのですから、本当にすごいことです。
 もちろんアイスホッケー部のOB会もあり、ゴルフコンペなどを楽しんでいます。私が始めたOBの寄付依頼は連綿と続いており、当然、私のところにも寄付依頼はあります(笑)。
 最初から京都大学を志望していれば2浪もせずに済んだでしょうが、浪人時代は決して無駄な時間ではなかったし、遠回りしたけれど京都大学を選んで本当によかったと思っています。

(取材日:2022年11月)


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