Vol.24 寄付者インタビュー

SAWAI KENZO 1968年大阪府生まれ。1993年京都大学薬学部卒業、1995年京都大学薬学研究科修士課程修了。同年住友製薬(現・大日本住友製薬)に入社。2001年に沢井製薬入社後、開発部企画グループ、研究開発本部などを経て2010年取締役戦略企画部長、2013年取締役常務執行役員戦略企画部長兼営業本部副本部長、2017年取締役専務執行役員戦略企画部長兼営業本部管掌を歴任。2017年5月に買収した米国ジェネリックメーカーのアップシャー・スミス・ラボラトリーズ(USL)の取締役会長を務めるなど米国事業を牽引してきた。2018年6月専務執行役員戦略企画部長兼研究開発本部管掌、SAWAI AMERICA取締役社長、USL取締役会長。2020年より現職。

Q 京都大学時代の思い出などをお聞かせください。

 家業である沢井製薬を継ぐつもりはないけれど、明確な目標があるわけでもない。「自由でおもしろそう。大学でしか専門的な勉強はできないから、どんな道に進むにしろ薬学の勉強をしておこう」。そんな気持ちで京都大学薬学部に進学しました。
 実際、勉強するもしないも個人の"自由"でした。私は薬学部内にあったテニスとサッカーのサークルを掛け持ちし、民間病院で薬剤師のアルバイトをし、友人たちと麻雀などをして遊ぶ日々を過ごしました。
 とはいえ、3回生になって実習が始まってからはまじめに大学に通いましたね。薬剤学研究室では、昼から夜遅くまで動物実験やデータ測定を行い、終われば皆でボウリングに出かけ深夜にラーメンを食べ、次の日の昼頃まで寝る。その繰り返しでした。
 大学院進学は考えておらず、商社への就職が決まっていたのですが、周囲は入試の準備で忙しく遊び相手がいない。「それなら自分も受けてみよう」と。ギリギリ引っかかり、親から説得されて進学を決めました。
 薬学部は1学年80人ほど、全学年ほとんど顔見知りというアットホームな雰囲気で、研究室メンバーとは四六時中一緒でした。優秀な人たちと出会い、今も付き合いが続いていること。どこの病院や薬局に行っても必ずと言っていいほど京大出身者がいて、目をかけてくださること。そうした人間関係を得られたことが、京都大学で過ごした一番の財産だと思います。各領域を牽引される先輩方を見る ことが、自分も追いつけるよう頑張らないといけないというモチベーションにつながっています。
 後悔があるとすれば、英語の力をもっとつけておきたかったことでしょうか。アメリカの企業を買収し一年の半分ほどアメリカで過ごしていた時、つくづく思ったものです。

Q 大学院修了後、家業ではなく
  別の製薬会社に勤められた経緯は?

 敷かれたレールに乗りたくないという気持ちがぬぐえず、自分の力で成り上がりたいと住友製薬(現・大日本住友製薬)に就職しました。臨床開発職として働いていたのですが、6年半勤めていると先が見えてきました。新薬は1つ開発するのに10〜20年の時間がかかり成功率も低い。関われるのはせいぜい2、3品でしょう。そんな時に、自分の人生について見つめ直してみました。
 経済的に苦労せずにやってこられたのは沢井製薬があるからで、そこで働いてくれている人たちに恩返しをすべきではないか。ジェネリック医薬品は、患者さんの経済的負担を軽減するなどの社会貢献的な意味も強く、より多くの人の役に立てるのではないか。自分の出世ではなく、社会の役に立つことを目指すべきではないか。30歳を過ぎて自分が生まれた意味も含めて考えるようになり、結局、家業に戻ることにしたのです。

Q 創立125周年に寄せて、京都大学への期待や京大生への
  メッセージをお願いします。

 京都は学生時代を過ごすには絶好の場所です。私は寺社仏閣巡りを楽しんだのですが、おかげで今、海外のお客様を京都観光にお連れする際に自ら案内することができます。自国の歴史や文化を語れるのは大切なことであり、それらを学ぶために京都という環境を利用しない手はありません。知識や経験はビジネスに活きるだけはなく、自分の人生を豊かにしてくれるでしょう。
 コロナ禍でさまざまな制約を強いられていますが、大学時代は自分のためだけに時間を使うことができる貴重な時期。勉強以外にも、将来の人生を豊かにするための経験をたくさん積んでいただきたいと思います。
 偉くなりたい、お金を稼ぎたいという欲望は誰しもが持つものです。しかし、一定以上の年齢や地位になると、「自分がどれだけ社会に貢献できているか」を考えるようになります。この思いは、若い時に社会との交流を持つほど強くなるもの。ですから、積極的に社会に触れておいてください。優秀な頭脳を持つ京大生にとって、「社会の役に立つ」という使命は誰よりも大きなものであるはずです。

(取材日:2021年1月)


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