Vol.17 鼎談

奥 正之さん

OKU MASAYUKI 1944年長野県生まれ。1968年京都大学法学部卒業後、住友銀行に入行。シカゴ支店長、国際統括部長、企画部長、三井住友銀行専務取締役、副頭取、頭取、三井住友フィナンシャルグループ取締役会長を経て現職。全国銀行協会会長、日本経済団体連合会副会長などを務めた。現在、京都大学総長顧問、大阪フィルハーモニー交響楽団理事長。米国ミシガン・ロースクール修了。

山西 健一郎さん

YAMANISHI KENICHIRO 1951年大阪府生まれ。1975年京都大学工学部機械工学科卒業後、三菱電機に入社。
常務執行役員、上席常務執行役員、代表取締役執行役社長、取締役会長、取締役相談役を経て現職。
2017年より日本経済団体連合会副会長。日本テニス協会会長。

トップ職に役立ったのは
幅広い知識を学ぶ意欲と時代を読む目

山極奥さんは法学部から銀行へ、山西さんは工学部から電機メーカーへ進まれましたが、進路はどのように決められたのですか。
銀行に入行したのは、偶然としか言いようがありません。法曹界ではなく産業界、それも当時勢いのあった製造業の分野で、グローバルに活躍できるビジネスマンを夢見ていました。ところが、住友銀行のリクルーターが非常に熱心で、自分の知らない話をたくさん聞かせてくださった。「銀行はおもしろそうだ」というのが決め手となりました。
山西私は化学工学と機械工学の2分野を学んだのですが、化学メーカーは保守的なイメージがあり、当時、化学工学の助教授だった恩師がもとは機械工学を専攻されていて、私のほうが機械に興味を持つようになったんです。電機メーカー3社に見学に行き、奥さんと一緒でリクルーターとの相性もあって三菱電機に決めました。
山極入社時から自らトップになる姿を思い描く人がどれだけいるのかわかりませんが、お2人はいかがでしたか。

海外業務をはじめ幅広い仕事をしたい。その一心でしたから、当然、トップになりたいなんていう野心はありませんでした。
人生は出会いと選択の繰り返しです。出会いは偶然であることが多いけれど、選択は自分の意思で行うもの。意思である以上はすべて自分の責任で、とにかく一生懸命やるしかない。そうやって仕事に向き合ってきた積み重ねが、トップになるという形であらわれたのだと思います。
山西私は入社時から研究所配属を希望していて、ユニークな製品や技術を開発することを目標にしていました。"経営"というものに少しでも興味を持つようになったのは、工場の製造部長になった頃でしょうか。
山極松下幸之助は、将来成功すると思う人の条件として、「愛嬌がある。運が良さそうに見える。背中で語れる」の3点を挙げています。どれも"雰囲気"ですね。「この人についていったら大丈夫。この人を助けてあげたい」と思わせる雰囲気を、仕事に打ち込む中で自然と身につけておられたのかもしれません。
お2人がトップになったことについて、どんな資質が評価されたのだと思いますか。
山西当時の社長と人事部長には、営業のできる技術者というのが一番のポイントだったと言われました。これまでの社長像とは違う「技術者かつ営業マン」という私を社長に就けたということは、会社が"多様性"を求めたからだと、私なりに理解しています。
山極化学工学と機械工学の2分野を学んだことも、俯瞰的な視点を養うことに役立ったのでしょうね。
山西そう思います。性格としても、1つのことをとことん突き詰めるよりは、異なる分野の知識を学ぶことが好きでした。
山極性格とはいえ、そうして幅広く手がけていることが、周囲には「目配りができる」と映るのかもしれません。
私もどちらかというとそのタイプです。理系だと早い段階で1つの専門に絞るイメージがありましたが、それより幅広く学びたくて文系を選び銀行に入りました。結果として正解でした。銀行業というのはあらゆる産業とお付き合いがあり、それはもう、本当にいろいろなことに精通していないといけない。性に合っていましたね。
山極トップに必要な資質はさまざまあるでしょうが、時代の流れを読む目あるいは直感からくる信念というのも非常に重要ではないでしょうか。
私の場合、先見の明があったわけではなく、銀行も国際化の時代だと強く思ったのです。もともと海外業務に興味があり、大学で米国商事法関連の外書を読んだ経験から、これからは国際法務に強い人材を育てる必要があると考えていて、それを提案したところ、私が米国ロースクールに留学することになりました。
帰国後すぐに安宅産業問題が起き、早速、留学で学んだ知識を活かす機会に恵まれました。国際法務がまず自分のドメインとなり、買収や提携案件などへとドメインを広げることができ、ラッキーだったと思います。
山極山西さんは生産技術畑を中心に歩き、日本の半導体産業の衰退を目の当たりにされてきましたが、その流れをどのようにご覧になっていたのでしょうか。
山西日本は競争に負けるべくして負けた、と思いました。理由は、日本の設計重視、設備軽視の考え方です。
半導体に限らず液晶、太陽光パネル、有機ELなどの産業は設備がすべてなんです。家電や自動車と違って人の手で加工する工程がなく、全工程が機械による加工であり、設備にノウハウが組み込まれている。設計・開発技術がなくても、材料と設備があれば製造できてしま う。それなのに、設計重視の半導体メーカーが製造装置を外注し、製造装置メーカーが技術力を上げていき、中国や韓国に設備を売るようになる。人件費や土地代の低い中国や韓国が安く製造して、半導体業界を牛耳るようになる。そういう構造です。
日本には危機感がなさすぎました。今後、日本の製造業は協調領域と競合領域の区分を真剣に見極めていかなければなりません。

経済人から見た大学教育の問題点とは?
大学と企業との人材交流を

山極今度は経済人の視点から、京都大学をはじめとする高等教育の現状についてご意見をお伺いしたいと思います。日本の高等教育のあり方、それを取り巻く環境について、問題だと考えていることはありますか。
日本のノーベル賞受賞者の中で京都大学ゆかりの人が最も多いことは同窓生にとって大きな誇りですが、自然科学系受賞の対象になっているのは、ほとんどが基礎研究分野です。しかし、日本では基礎研究分野の予算が削減され続けています。国も企業も成果を性急に求めすぎて、教育や研究に対する視点が非常に短期的になっているように思います。
山西たしかに基礎研究と応用研究への予算配分に対して、大学と産業界には意見の食い違いがありましたが、現在、日本経済団体連合会で議論が始まっています。
山極内閣府でも将来的な基礎研究力低下を懸念しており、私は日本学術会議の会長として、半年かけて特に若い研究者の意見を聴取してきました。その声を第6期科学技術基本計画に反映し、来年度の予算にも組み込む予定です。ようやく潮目が変わりつつある気がします。

山西極端ではありますが、基礎研究は国が予算を出し、応用研究は企業が100%お金を出すべきだというのが私個人の考えです。
山極うれしいお言葉ですが、企業から支援をいただくには、互いのことをよく知る必要がありますね。ひと昔前とは違い、産学連携もずいぶん広がってきましたが、その点は肝心だと思います。
山西今後さらにオープンイノベーションが進むでしょう。
卓越大学院プログラムは企業と大学とが人材をローテーションするきっかけになると期待しています。研究者だけでなく、企業の営業や財務部門の人材も交流すべきというのが持論ですが、それによって大学は経営に目を向け、企業の目線から大学の課題も見えてくるのだと思います。
さらに、大学発ベンチャーに対しても、企業は積極的に支援すべきです。
山極大学発ベンチャーの増加数で、2018年度、京大が首位となりました。京大発ベンチャーは分野が幅広いのが特徴で、京都大学イノベーションキャピタルは現在、シード・アーリーステージのベンチャー29社に投資をしています。最近は在学中に起業する人も増えており、OBや企業からの支援が大きなエンカレッジとなって勢いを増していってくれるでしょう。

東西の情報の格差に危機感
積極的な情報発信と高度なITリテラシー教育を

情報化の時代にあって、逆に、関西と東京との情報の格差が広がっていると感じます。情報量、発信量ともに関西は後れを取っているのではないでしょうか。特に顕著だと思うのは、ICTやAIなどの先端技術分野です。京大の先生は研究成果などを東京に向けて積極的に発信するとともに、次代を担う人材育成により京大のステイタスを上げる努力をしていただきたい。
山西そうですね。AI、IoT、ビッグデータの技術者・研究者の育成は国、企業、大学すべてにとって喫緊の課題であり、京大には頑張っていただかないと。ただ、どんな技術者を育てるかという定義が曖昧との指摘もあり、その点についても産学間での議論や連携が必要です。
先端分野を担える技術者を育てると同時に、大学は基礎の部分であるITリテラシー教育にもっと力を入れなければなりません。今やどんな業種にもITリテラシーは必要ですから。
山極現在、教養教育や大学院の共通教育の中に取り入れています。

重要なのは"誰が"教えるかです。海外のようにベンチャーを立ち上げ最先端を走ってきた人が教員となって、若い人に移植していくべきではないでしょうか。
山西加えて、IT リテラシー教育をどの時期から始めるべきかについても意見は分かれるでしょうが、それなりにITリテラシーの高い京大生には、レベルに応じた高度な教育を行ってほしいですね。
大学の学びが実業につながることは少なく、必要な時に必要な応用力を発揮できる基礎を身につけるのが大学という場である一方で、社会人が現場で必要な力を学べる場でもあってほしい。海外には大学で学び直しをする社会人は多いですが、日本はまだ少数です。私は米国ロースクールで契約書の作成方法から模擬裁判を通したさまざまな事例を学びました。専門スクールでも学部のあとのフォロースクールでもどんな形でもいい。日本にもそうした"プロを育てる"大学があってほしいと思います。
山極おっしゃる通りです。本学も社会人の大学院コースを設置するなど、制度整備に力を入れているところですが、今後、本学がイニシアティブをとっていきたいと思います。

若い時こそ何事も"疑い"
"最初にやってやる"という気概を持とう

山極京都大学は2022年に創立125周年を迎えるにあたって記念事業を実施します。人材育成を中心として、国際競争力強化、研究力強化、社会連携推進という3事業を展開する予定です。創立125周年に寄せてメッセージをお願いします。
山西京大に目指してほしいのはただ一つ、「グローバルナンバーワン」です。何をもってグローバルの指標とするかは難しいところですが、国際競争力強化はまさに、グローバルナンバーワンを目指すために必須です。
山極肝に銘じます。2019年、京大は英国の教育専門誌が発表する2つのランキングで1 位を獲得したのですが、ある卒業生の方から「日本一ではだめだ」と叱られました。
山極さんが打ち出されたWINDOW構想の中で、私は特にO(Original and Optimistic)とD(Diverse and Dynamic)が大切だと思っています。
Originalは、京大のアイデンティティに欠かせないものです。関西的なおおらかさや自由さが京大の特徴であるのは間違いありませんが、一方で、かつて都があったという自尊心、明治時代の東京遷都による残されたものの"反中央"的な精神がミックスされて、つねにユニークな発想や発言をしなければならないという底力になっている。だからこそOriginalでいられるのでしょう。

山西Originalは京都という土地も関係していると私は思います。京都には四季の美しさ、古き良き日本の文化があり、豊かな情感や自負を育て、"どこでもない"場所だとの思いを強くするのではないでしょうか。
山極よくわかります。京都は世界を相手にしているという気概を持つ人が多く、Originalへのこだわりも強い。
Optimisticというのも重要です。私は楽観的と訳すのはあまり好きではなくて、関西人の傾向として楽観的というよりは「前向き」という言葉のほうがふさわしい。
山西京大が大切にする「創造の精神」も前向きじゃないと育ちませんね。
山極関西は競争しているつもりが「じゃあ、やったろか」という協力に替わり、前に突き進んでいく文化があると感じます。それが創造力の原動力になるのでしょうね。
2つのDも切り離せないもので、ダイバーシティが進むほど、おのずとDynamicになっていきます。多様性というのは国内外に限りません。海外の優秀な留学生に刺激を受けるのは当然のこととして、私は大学に入って「大阪の人はこんな考え方をするのか」とおもしろく思ったものです。国内でも地域によって気質の違いがあり、それだってダイバーシティです。最近、東京の大学は東京出身者の比率が高まっていると聞きましたが、京大はいかがですか。
山極京大はわりと全国から学生が集まっています。
それはいい。125周年記念事業では留学生や研究者の交流施設を整備するそうですが、そうした場づくりにも取り組み、125 周年で集める募金を有効に活用してほしいと思います。
山極最後に、京大生へのメッセージをお願いします。
若い時にこそ大切なのは"疑う"ことです。科学技術も人間がつくったルールも、完璧ではない。時代や環境の変化を敏感に読み取りながら、つねに新しいことへ、アグレッシブに挑戦してください。
山西研究でもなんでも、一番難しいのは「最初にやる」ことです。京大で培った反骨精神を忘れず、一番難しいことに取り組んでほしいですね。
山極ありがとうございます。問いやチャレンジが生まれるためには、好奇心がなければなりません。京大は好奇心をかきたてる場を提供することで、強くたくましく、チャレンジングな人材を育てていきたいと思います。

(開催日:2019年10月)

■ 学士会館 ■
学士会は、東京大学総理であった加藤弘之先生の退任を機に謝恩会が開かれたことに始まり、旧帝国大学(現在の国立7大学)出身者の親睦と知識交流を目的とした場に発展した。
1913(大正2)年に会館を創建したが同年に焼失。その後も焼失と再建を繰り返し、1928(昭和3)年に現在の学士会館が建設された。宿泊、レストラン、会議室、結婚式場などを完備する学士会館は、学士会会員のための倶楽部施設だが、現在は一部の施設を除いて一般利用も可能となっている。
斬新かつモダンで重厚な雰囲気は90年以上経た今も継承され、2003(平成15)年に国の重要文化財に登録された。