Vol.18 パネルディスカッション
ポストコロナ時代に求められる価値観とは?
出口フランスの現代哲学者リオタールは40年前すでに、高度情報化社会のディストピア(反理想郷)として「効率性の一元支配」を指摘し、怖いのは効率化自体が自己目的化し、「何のために」の部分が抜け落ちることだと言っています。
戦争をはじめとする社会問題の根本原因は「無知と貧困」であり、教育を普及し科学を発展させて世界を豊かにすれば明るい未来が開けると信じ、先人たちはそれを目標に歩んできました。効率化を追い求め、人・モノ・カネの流動化、そしてグローバリゼーションを進めてきたわけです。
現実には、多くの問題はそれだけでは解決しないけれど、コロナ前のグローバリゼーションは行き着くところまで行ってしまった。リオタールの言うディストピアの究極形態だったのかもしれません。
しかし、コロナパンデミックの今こそ、元のグローバリゼーションに戻ってよいのか見直し、新たな価値観を探るべきではないか。そうした観点から、ポストコロナ時代に必要な価値観や社会の再起動の方向性について、お2人のご意見を伺いたいと思います。
澤田現在、AIやIoTの進化によって快適な環境をつくれるけれど、それは監視されコントロールされることと表裏一体でもあります。デジタルツインが加速すれば、すべてにおいて一元支配が勝ることになります。猛スピードで進歩するITをどうコントロールするかが今後重要であり、当社が出口先生とテクノロジーの進化と人とが調和する新たな世界観を構築するプロジェクトを立ち上げているのもそのためです。
現在、コロナによって人とモノは止まっているけれどカネは動いているわけで、今後は大きな構造変化が起こるでしょう。ローカルの中で動く部分とグローバルな中で動く部分の「同時並列」が、すでに見え始めていると実感しています。
山極学生時代に読んだ梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』には、現代の情報化時代が予言され、情報が価値を持ってカネを生む時代が来ると書かれていました。
情報化社会の怖さは、最初はそれが社会を発展させるけれど、人間が使い方を間違えるようになり、ネガティブな方向に変わっていく可能性があるということです。情報は操作が簡単で、誰もが送信者となった今、何に信頼性やエビデンスがあるかわからなくなってしまっています。
グローバリゼーションが最高潮に達した時に起こったのは、世界のプラットフォームで議論されたことが地域に押し付けられるように感じられ始めたことです。SDGsは世界が一丸となって17の目標を達成しようとする取り決めですが、不思議なことにその議論の中に「文化」はありません。文化はグローバルにはなり得ない。土地に密着したローカルなものですから。
これまでは「Think global act local」、これからはむしろ「Think local act global」だと私は思います。大きなものが小さなものを吸収するのではなく、さまざまな地域の文化が分立しながらネットワークをつくり連携を高めていく、そんな社会に再編することが、コロナ後は可能になるのではないかと思います。
「個性」を失わせない遠隔化の未来図を描く
出口きちんとローカリティを持つことで自立した価値観や経済ができ、情報の流れができ、そこからグローバルにつながる形が大切なのでしょうね。
本日のもう1つのトピックである「遠隔化」は切実な問題です。どの部分は遠隔化が可能で、どの部分はしてはいけないのかといった判断に、それぞれの価値観が入ってきます。
山極ローカルが大切と申し上げた理由は、個性を見直すべきだと考えるからです。
京都大学の教育は伝統的に「個性」を大切にしてきましたが、遠隔授業に頼ってしまうと均一化に向かう怖れがあります。それを回避するのは、オンラインでも「個人授業」をし、個人が持つ悩みや疑問などを受け止めることです。対面というのは、単なる情報の交換ではなく、それぞれの人の中に入り合い、身体化して感じる心をもって臨むことなのです。教育にはそれが重要で、特に実習や演習、フィールドワークはまさにそういう授業なのに、それを奪われている現状は残念でなりません。
澤田 ITの可能性は、個人のパーソナルソリューションができることです。サイバー空間は無限であり効率化を求めれば均一化に向かいますが、より個人のバリューを高めることで際限なくバリエーションはつくれます。その両方をうまく組み合わせることが大切です。
私は遠隔化を二元論でとらえないほうがいいと考えています。ITはツールとして教育の中で活用すべきでしょう。しかし、情報の「身体化」という意味では、実現しているのは視覚と聴覚だけで、"五感通信"は実現していません。臨場感を伝えられない以上、オンラインですべて行うことは無理がありますから。
出口遠隔化の対照にあるのが対面であり、身体感覚も含んだコミュニケーションが切実に必要なのでしょう。
遠隔にないものは「こそこそ話」と「身体をさらけ出す」ことです。対面によって相手のリーチの中に入るということは、互いが相手に対して「私は安全ですよ」と示していることになります。対面性が持つリスクを平和的に乗り越えている。一方で、「あなただけにこっそり」というコミュニケーションも昔から獲得している。これは人間だけの特徴なのではないでしょうか。
山極ゴリラは言葉がない代わりに身体を使い、近くにいることで関係性をつくります。一方、人間は身体だけでなく、言葉を使って信頼性を高めて仲間をつくります。実は、人間の会話の大半はうわさ話で、たしかな情報を交換するというより関係づくりに目的があるという仮説があります。「おはよう。こんばんは」という言葉は意味を伝えるのではなく、相手との関係を確認するような「時を共有する」社会言語です。人間はフレキシブルに相手とつながる手段として、意味よりも関係性を重視したコミュニケーションを進化させてきたのです。
出口科学的な命題であるコロナに関して、各国の対処が大きく異なり、国柄や価値観の違いが如実に現れました。
情報やインフラにはさほど違いがないのに、社会がこれだけ違うということは、一つのプラットフォームでは限界があるのかもしれない。情報化のあり方自体が国によって違うことが、コロナをきっかけに明らかになってきたように思います。
澤田 NTTはGAFAとは違うやり方をしようとしています。情報のオーナーシップである市民との信頼関係ができるように情報をローカルに活用する。エリアによってモデルが違うのは当然で、規範はグローバル、Actはローカルという考え方が必要になります。NTTは海外子会社含め1,000人以上のコロナ罹患者が発生しましたが、共通の対処法を考えることをやめ、エリアごとに対処してもらうようにしました。ダイバーシティにとって必要な、グローバルな規範というのが求められる時代になっているのでしょう。
出口京都大学は首都でない場所に、世界レベルの研究を行う大学として存在しており、アジアでは稀有な例です。京都の画一化されない文化を背景に、町と大学とが混然一体となって"おもろい"精神を育ててきました。
コロナによってさまざまな場や人に問題を生じている状況において、今後、京都大学の価値をいかに発揮していけるかが重要になります。
山極1200年の長い歴史を紡ぎ時代を超えて文化がつながれてきた京都という場所は大きな魅力です。この地にある京都大学は、市民にとっても特別な存在です。京都大学が動けば市や市民も動く。京都大学は"グローカル"な存在として、ポストコロナ時代に力を発揮していくべきでしょう。
結びにかえて-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
山極 壽一 第26代総長より
私が打ち出したWINDOW構想は、学生たちをたくましく育て窓から送り出すという思いを込めたもので、皆さんのおかげである程度実現できたと思っています。私自身は今「WIND」つまり風となって、窓からふわっと出て行こうとしています。この後は湊総長、どうかよろしくお願いいたします。
湊 長博 第27代総長より
コロナのことだけでなく、国立大学は新しい局面を迎えています。京都大学は誰のために存在するのか。この原点を探る議論に、多くの方に参加いただきサジェスチョンをいただければと思います。
(開催日:2020年9月)