Vol.19 鼎談

森 重文  もり しげふみ

1973年京都大学理学部卒業、1975年京都大学理学研究科修士課程修了。理学博士(京都大学)。京都大学理学部助手、名古屋大学理学部講師・助教授・教授、京都大学数理解析研究所教授・所長を経て、2016年より現職。
1990年に「3次元代数多様体における極小モデルの存在証明」により、数学分野のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受賞。同年アメリカ数学会コール賞、文化功労者、1998年日本学士院会員、2015~2018年国際数学連合総裁。

湊 長博  みなと ながひろ

1975年京都大学医学部卒業。医学博士(京都大学)。米国アルバートアインシュタイン医科大学研究員、自治医科大学助教授、京都大学医学研究科教授などを経て、2010年京都大学医学研究科長・医学部長、2014年京都大学理事・副学長、2017年京都大学プロボスト。2020年より現職。
2014年JCA-CHAAO Award(日本癌学会)、2016年創薬科学賞(日本薬学会)受賞。
免疫反応のブレーキ役となる膜タンパク質PD-1を発見し、2018年にノーベル生理学• 医学賞を受賞した本庶佑特別教授との共同研究で知られる。

北川 進  きたがわ すすむ

1974年京都大学工学部石油化学科卒業、1976年京都大学工学研究科修士課程修了、1979年京都大学工学研究科博士課程修了。工学博士(京都大学)。
近畿大学理工学部助教授、東京都立大学理学部教授、京都大学工学研究科教授を経て、2013年よりiCeMS拠点長、2017年より高等研究院特別教授、2020年より現職。
2010年トムソン・ロイター引用栄誉賞、2016年日本学士院賞、2017年ソルベイ未来化学賞、2019年日本学士院会員。
ナノサイズの穴を多数持つ「多孔性」物質を開発。地球温暖化の原因となる二酸化炭素を吸着する新素材の開発や医療への応用が期待される。

同時期に過ごした京都大学での学生時代
それぞれのベーシックサイエンスとの出会い

京都大学に入学したのは森先生と私が1969年、北川先生が1970年。同世代ながら数学、医学、化学と異なる分野を歩いてきた3人ですが、その分野に興味を持ったきっかけからお聞かせください。森先生は子どもの頃から数学が得意だったのですか。
小学生の時、家業が忙しいという理由で学習塾に通わされていたのですが、得意な科目などなく、テストで上位に入ることもありませんでした。でもある時、先生から「算数のこの問題が解けた人にはご褒美がある」とロールケーキを見せられて。思わず食い意地が出て解いてみたら、正解したのは私だけだったんです。「数学はできるかもしれない」と初めて思った経験でした。とはいえ、それからも急に成績がアップすることはありませんでした。

いつから伸びたのですか。
高校生になってからですね。誰しも伸びる時期というのはありますが、私の場合、きっかけはわからず、「数学がやりたい」という思いがあるだけでした。大学選びもその思いだけで、東京大学の入試が中止になったため京都大学に入学したのですが、結局、京都と肌が合ったのでしょう。研究と生活の距離が近いことが心地よかったです。
理学部の中で数学を志す学生は多くはなかったですが、迷いはありませんでしたか?
数学以外がダメだったのでまったくありませんでした。迷いが出たのは修士課程に進学する頃です。数学は努力しても結果がついてきません。実験であれば失敗しても何かしら形として残ったり、ヒントを得られたりしますが、数学は自分の頭の中で考える学問なので、どこでもできるのが長所ですが失敗すると何も残らないという厳しさもあります。それで学生から研究者への脱皮に苦労しました。
特殊な世界ですよね。北川先生はいつから化学に興味を持たれたのですか。
北川もともと物理学が好きで、理学部が第一候補だったのですが、当時は高度経済成長期で「工学」が一つのキーワードでした。京大工学部工業化学科に通う従兄弟からもおもしろいよと教えられ工学部に進学したのですが、いざ入学してみたら京都大学は荒れていました。
私たちの年は入学式が中止され、大学は封鎖されていました。
入学後半年間は授業もありませんでした。
北川私も先輩に衝突からの"逃げ方"を教わったものです。そういう状況で入学早々目標を見失い、とりあえず語学の勉強をしたけれど、試験が延期になってまたやる気を失いました。宙ぶらりんな気持ちでしたが、幸運だったのは私が所属していた学科に福井謙一先生がいらしたことでした。
まだ現役でいらしたんですね。
北川はい。それで福井先生のご専門だった量子化学を「おもしろそう」と感じたことが、化学に目覚めるきっかけとなりました。おかげで1・2回生の時にその基礎となる物理、数学をじっくり勉強できました。4回生で私が所属したのは、福井謙一先生の弟子であった米澤貞次郎先生の研究室です。
工学部はものづくりのための応用研究を行うというのが一般的な認識でしょうが、京大工学部の化学系は違いましたね。世の中の役に立つといったことを考えず、おもしろいからやる。ある意味、京大らしさを最も体現している学科だったかもしれません。けれど、先生方は好きなことだけをやっているように見えて、学問を体系化して自らの学術の流れをつくり出していて、これこそが学問だと思ったものです。
お2人とも早い時期からベーシックサイエンスとの相性の良さを見つけているのですね。私の場合、地学や生命の起源などに興味があるけれど、どんな分野に進めばいいかわからない。先生から「医学部はどうか」と言われて入学したものの、きちんとステップを踏んでいく学問である医学にはあまりなじめませんでした。もっと実験がしたいと思っていた時に出会ったのが「免疫学」です。講義にも実習にも出席せず、原書を読み漁り、いろいろな研究室に出入りし、学会に参加して論文を書いたりしていました。周囲に免疫の研究をしている人がおらず、アメリカの研究者に手紙を書いたのですが、運良くその先生に声をかけてもらって26 歳の時に留学し、充実した研究生活を送りました。お2人とは反対に、自分の適性を見極めるまでには少々時間がかかりました。

高名な先生にアクセスできる
恵まれた環境が京大に

当時の京大は「何でもあり」という面がありましたよね。
私たちの入学年は特別だったんですよ。3回生から学科別に分かれる分属制がなくなり、4回生になって行き詰った学生がたくさんいました。「何でもあり」には良し悪し両方の面があるのだと思います。
なるほど。加えて、京大には手取り足取り指導して全員を引っ張り上げる、ということをあまりしない面がありました。
北川教育については、背中を見て自分で成長しなさいというスタンスです。先生のほうは、学生に上から言い渡すというような高圧的な態度ではない雰囲気があったように思います。しかし、あくまで学生の意欲次第。"適当にこなす"ことは可能でしたが、それも一つの価値観であり、適当にやっていた人たちが後に出世していたりします。大切なのは、揺籃期ともいえる大学生時代に可能性をつぶさず、多様性を受け入れることなのでしょう。現在、教育現場は画一的になりすぎています。
今までは日本人だけで独自のカルチャーの中でやってこられましたが、グローバル化が進めばこういう教育は成り立たなくなるでしょう。

特に海外の大学では教育のスタンダードが確立されていますからね。研究のことしか知らない私たちに比べて、海外の学生は大学の運営やシステムなど研究以外のことをよく知っていて驚きました。
北川当時、学部のカリキュラムどおりに勉強すれば広く基礎的な知識は身につくし、海外の大学でも通用しました。学部の教育はしっかり整備されていたけれど、大学院が完全な放任だったのでしょうね。
そうだったかもしれません。日米どちらの教育方法にせよ一長一短はあるのでしょう。
ところで、我々の学生時代、京都大学には工学の福井先生をはじめ医学にも数学の世界にも高名な先生がいました。その先生方が雲の上の人ではなく、学生たちにもアクセスできる環境にあったことは非常に恵まれていたことでした。
北川たしかに。私が院生の時、福井先生の研究室が近くにあり、在室されている時に恐る恐る訪ねて質問したことがあります。福井先生はじっと聞き入って、一生懸命考えアドバイスをくださいました。その姿勢に感激したことを覚えています。
私は3回生の時、フィールズ賞を受賞された廣中平祐先生が来日して数理解析研究所で集中講義をされたのですが、ある日、食堂でお見かけして、恐れ多いとは思いながらわからない問題についてお聞きしたら、さらさらと図を描いてくださった。その図を見たとたん納得したんです。とても印象深い出来事でした。

京大以外での研究経験が
自分の"許容量"を大きくする

私たち3人の共通点は、若い時に京都大学以外の国内外の大学で研究を行っていることです。この経験が自分のキャリアにおいて影響していると感じることはありますか。
北川私は国公私立大と3種の大学を渡り歩いて工学部と理学部に所属し、運営方針をはじめあらゆる違いを知りましたが、この経験で得た最大の恩恵は、自分の"許容量"が大きくなったことだと思います。人はずっと同じ環境にいると、従来と違うやり方を受け入れにくくなり、やり方を変えようとする人に抵抗したりするようになりがちですが、私は「異種の意見に冷静に耳を傾けて、組織はいいものを受け入れて円滑に回せばいい」と思えるようになりました。

「こうでなければならない」と言う人は必ずいますが、「より良い」を目指すためには許容量の大きさや柔軟性が必要です。
私は助手になって2年目にハーバード大学に助教授として出張しています。出張が1977年、学位取得の1年前でした。学位論文は提出済みで事務処理以外終了していたので先方が認めてくれたのです。
私がアメリカに行ったのと同じ年ですが、早い段階で行かれたのですね。
恩師の永田雅宣先生は、もう1年早く学位を授与してから出張させようと考えておられたようです。
アメリカで「これはいい」と思ったのは、メリハリがはっきりしていることでした。授業期間は非常にタイトですが、終わればキャンパスに誰もいなくなります。そこで2年目の夏休み、誰もいなくなった研究室でふと思い立ち、日本で取り組んでいた問題に再度チャレンジしてみたら、なんと解けたんです。それがフィールズ賞受賞につながった超難問でした。環境の変化とメリハリのおかげかもしれません。
場所の変化は大きいと思います。場所が変われば人のキャラクターも変わります。私はかつて、公私の区別があいまいで人間関係がウェットな京都があまり好きではありませんでした。東京だと公私がはっきり分けられていて、クールな関係がいいと思ったものの、年をとってくると今度はおもしろみがなくなる。41歳の時に京大に戻りましたが、森先生がおっしゃったように、職場と生活の場が近く混然としている京都のこの感じがいいと、今は思っています。
京都は研究に疲れたらちょっと散歩ができる環境にあふれていますしね。
私は助手の時に何か新しい研究を始めたいと思っていたところ、ある論文に目をとめ、その研究をされていた講師の方が近くに住んでいたので図々しく押しかけました。議論させてもらった内容が共著の論文になりましたが、この環境のおかげですね。
北川京都は研究面では最適な環境であることはたしかですが、首都圏の大学は政府との距離が近く、学会の仕事も多いため、「オーガナイズする、トップに立つ」という自覚が芽生えやすい。学術をつくるには主張やオーガナイズが大切で、首都圏ではそういう教育が自然とできるのでしょう。学会等の役職に就くと、30代後半から50歳くらいにかけて一番研究にも脂がのる時期にじっくり考える時間がなくなるので、ジレンマではありますが。
私自身は、若い時代に研究以外の視点を持てる環境を経験してから京都に戻ってきたことが、研究を進めるうえで幸運であったと思います。

学生をインスパイアするのは若手研究者たち
学生と教員の距離を縮める工夫を

自分の経験に照らして、学生時代にこういうことをしたらいいといったアドバイスなどはありますか。
早い段階で海外に行くべきだし、機会を大学として用意することも必要です。
海外留学は短期ではなく、一定期間、研究生活を送らなければなりませんね。
少なくとも1年単位でしょう。私はハーバード大学に3年間滞在し、すっかり自信がつきました。
北川私は近畿大学の時に1年半、テキサス農工大学へ行きました。この時の研究室を主宰していた教授は無機化学の巨人でしたが、応用には一切興味がなくとことん自分の興味を追求されていて、"京大らしい"研究者マインドは、実はインターナショナルではないかと思ったものです。

自分の可能性に気づくエポックメーキングは誰にもあるはずです。漠然と考えていたのが、あるものに出会った時に「これだ」と感じる経験。そういう目覚めを得る機会を逃さないためにこそ、多様な世界に触れることが必要なのだと思います。
私たちが「何でもあり」の中で得たことがあるのも事実で、あえてそれに似た自由な環境をつくり出すために、総長就任以来、教養教育の見直しについて議論を始めています。教養教育はタイトすぎ、理系の学生が文系分野を学ぶことも重要とはいえ、無理やりこなすのでは意味がない。自由度を高めるだけでなく、この分野に興味があるならこの科目は勉強すべきということがイメージしやすいようにパッケージ化する。加えて学生が興味のある講義や先生に自由にアクセスできるようにする。時間を割くだけの価値ある内容にして、学生たちが目覚めを得る教養教育にしたいと考えています。
北川流行の分野となると、今や年間の関連論文数は1万本ほどにのぼりますが、検索スキルを磨き、新しい論文や理論だけ学んでも意味がありません。バックグラウンドになる基礎部分をしっかり学び、力さえ身につけば、必要な知識は自分で獲得できるようになります。断片ではなく体系化された学問とその美しさを学ぶことが重要だと思います。
私たちは入学後半年間、授業がなかったため自主ゼミを開催していました。数学が専門のクラス担任にチューターをお願いしたのですが、あれはすごくよかったですね。
私たちもやりましたし、自主ゼミの単位認定を働きかけもしました。
今でも数学は高校から大学への接続がうまくいかないことが問題となっていますが、私自身、自主ゼミに助けられました。結局「自主的に学ぶ」ことほど実になるものはないでしょう。
北川私は学生と若手研究者の接触が重要だと考えています。物質−細胞統合システム拠点(iCeMS)は2007年に国のトップレベル研究拠点プログラム(WPI)として設立され、教育機関ではないため講義は持っていませんが、学部1 回生を対象とした少人数ゼミナールであるILASセミナーに協力しています。若手研究者が楽しそうに生き生きと自分の研究について話していると、学生は興味深そうに眼を輝かせて聞いていますよ。教養教育で工夫をこらしていても、研究者との接触に勝るものはないし、学生をインスパイアする役割は若手研究者であるべきです。
そのとおりだと思います。大切なのは動機づけですが、今は講義以外で学生と教員がインタラクションする機会が少なすぎます。学生が持っている、誰かと出会えば花開いたかもしれないポテンシャルを見つける機会に恵まれないまま終わらせてはいけない。おもしろい研究、おもしろい人材がそろっている"京大らしさ"に、学生たちを"さらす"機会をつくっていかねばなりません。
高等研究院についても、領域を超えて若手のハブとなる場所にしたいと考えていますので、今後もよろしくお願いします。本日はどうもありがとうございました。

(開催日:2021年2月)