Vol.21 対談

井村 裕夫  いむら ひろお

1931年滋賀県生まれ。1954年京都大学医学部卒業、1962年京都大学大学院医学研究科博士課程修了。内科学、特に内分泌代謝学を専攻。
1971年神戸大学教授、1977年京都大学教授、1989年同医学部長、1991年京都大学総長。1998年より科学技術会議(改組により2001年に総合科学技術会議)議員として、日本の科学技術政策に関わる。2004年公益財団法人先端医療振興財団理事長(現・神戸医療産業都市推進機構)、現在は名誉理事長。
京都大学名誉教授。日本学士院長。公益財団法人稲森財団相談役。

大学自治の到来とともに始まった
京都大学総長時代

創立125周年を間近に控えた今回は、創立100周年時に総長を務めておられた井村先生に当時のお話などを伺いたいと思います。
井村あれからもう25年、早いものですね。100周年と125周年時の総長がどちらも医学部出身というのは不思議な巡りあわせです。
本題に入る前に個人的な思い出話なのですが、1992年に私が医学部教授になって初めて出席した教授会が井村先生にとっては最後の教授会で、「湊君みたいな若い人が来る時代だから、私はそろそろ終わりでいいかな」とおっしゃったことを覚えています。
創立100周年というのは大きな節目だったわけですが、当時の京都大学が置かれていた状況や、目指していた方向をお聞きかせいただけますか。

井村1997年に迎える創立100周年に向けて、1990年頃から計画は始まっていました。当時はバブル経済の真っ最中、「100周年だから100億円の寄付を集めよう」と景気のいい話をしていたそうです。ところが、私が総長を継いだ時にはすでにバブル経済がはじけたところでした。「50億円に見直す」という話もありましたが、半減しては意気阻喪につながるということで、目標額は60億円に決定しました。バブル崩壊後の長引く不況の中で苦労も多かったですが、卒業生がさまざまな場所で活躍していたおかげで、目標額を上回る66億円を達成することができました。
井村先生が総長に就任されたのが1991年、まさにバブル崩壊が始まった年ですね。
井村しかも1991年というのは、大学行政にとっての大きな転換点でもありました。
「大綱化」と呼ばれる大学改革が行われ、大学設置基準などの要件が緩和された一方で、教育研究の質の保証は大学自身に求められました。自ら大学運営を行う時代の到来です。とはいえ、教職員にその気運はなく将来構想もない。大学運営に関わるのは総長と学生部長、事務局長のみ。これでは話になりませんから、部局長会議で副学長を置きたいと提案したのですが、全員に反対されました。学部自治を侵すという理由です。何度か議論を重ねた結果、特別補佐なら認めるということで、2人を選出、3人でまずは将来構想づくりから始めました。今からすると隔世の感がありますね。
1897(明治30)年に京都帝国大学が創設され、最初は4つの分科大学が設置されています。それぞれの学長が個々に運営し、その上に総長が置かれたという歴史的背景からも、大学全体として共通の目標を持つ文化がなかったのかもしれません。
井村そうだと思います。
京都大学創設の歴史については、創立100周年事業として編纂した『百年史』にも記されていますが、非常に興味深いものでした。1877(明治10)年に東京帝国大学が設立された後、「関西にも大学をつくるべきだ。帝国大学一校のみでは競争がなく慢心する」という建議案が国会に提出され、2回目で議案が通っていますが、場所がすんなり京都に決まったのは、旧制の第三高等学校(三高)があったからです。三高は科学技術の研究・教育機関だった舎密局(せいみきょく)が前身で、大阪から京都に移転して三高と改称されています。当時の高等学校では専門教育も行われており、法学や工学、医学など附属の専門学校があったことが、京都帝国大学を創設する際に有利に働きました。
西園寺公望公の存在も大きいですね。京都に誘致したのが当時、文部大臣だった西園寺公望公ですが、東京帝国大学は教員と官僚を兼任する人が多かったのに対し、もっと自由でアカデミックな雰囲気にしたいという構想があったそうです。フランス留学の経験から自由の大切さを実感していたとも聞きます。
井村公望公は京都の出身ですから京都への愛着もあったのでしょうが、他にもいくつか要因が考えられます。
当時は東京-京都間の移動には時間がかかり、東京帝大と違って政府の仕事を掛け持ちすることは難しく、そういう期待が少なかったこと。三高の初代折田校長が米国留学経験から「学問には自由が大切である」と強調し、独自の自由の学風を育てたこと。加えて、長く都であった京都には高い文化があったこと。これらが重なって、京都に大学をつくる、それも自由な学問の場をつくるのにふさわしい環境があったと考えられたのでしょう。

「教養教育をどのように行うか?」
答えを見つけられないまま始めた少人数教育

結局、副学長はいつ設置されたのですか?
井村総長最後の年になって制度が導入できました。私の総長時代は、大学自治の始まりとともにスタートし、創立100周年である意味で締めくくられました。
総長在任の間、非常に苦労したのが教養教育です。大綱化によって一般教育という科目区分が廃止され、全国の大学で教養部の解体が進みました。京都大学では教養部を母体として総合人間学部、人間・環境学研究科が設立されましたが、誰がどうやって、どんな内容の教養教育を行うべきか、という点については明確な答えは出せないままでした。最終的に私がお願いしたのは、1セメスターだけでいいから10人程度の少人数制で、研究の初歩でいいから教育してほしいということでした。大教室で講義を聴いて終わりではなく、教員と接触できる機会をつくってほしい。それが1998年に始まったポケット・ゼミという少人数教育科目です。
教養・共通教育というのは、いまだに懸案なんです。各学部の教員が国際高等教育院に集まって教養・共通教育の企画運営を行っていますが、まだ十分に機能していないと感じていて、制度設計やカリキュラムのあり方を見直していかなければならないと考えています。
井村先生のアイデアで実現したポケット・ゼミは2016年にILASセミナーとして改編され、今では300講座近くに上っています。今や京都大学の看板と言っても良いでしょう。京都大学はフンボルト理念と呼ばれる研究中心主義を導入して、「研究を通して教育する」ことを目指してきたわけですから、少人数教育をさらに充実させていく必要があります。
井村ポケット・ゼミの参考にしたのが、オックスフォード大学の教育です。かつてオックスフォード大学は全寮制で、1人の学生に1人のチューターがつき、共に寮生活を送っていました。1対1の教育、つまりチュートリアルです。今でもその精神は生きていて、個人的な知識の伝達を基盤として、人のまねをせず、自分で考えることを大切にしています。
そこに大きなヒントがありますね。アメリカの伝統ある名門大学8校から成るIvy League(アイビー・リーグ)の中でも、教育に重点を置くプリンストン大学やコロンビア大学などは少人数教育を重視しています。
井村学問をするうえでの基礎となる「自ら考える」という要素は、先生とやりとりする中で身につけていくものだと思います。

科学技術会議員として
科学技術政策の改革を目指した

井村先生は京都大学総長の任期終了後、1998年に神戸市立中央市民病院の院長に就任されました。
井村ところが病院長に就任してすぐ、文部省から科学技術会議(改組により2001年に総合科学技術会議。現:総合科学技術・イノベーション会議)の議員をやってほしいと依頼がありました。
悩んだものの引き受けることにしたのは、いくつか気になる問題があったからです。国立大学、特に旧帝大の施設が非常に老朽化していたこと、科学研究費補助金が諸外国に比べて非常に少ないこと、これらの問題に対して、少し違った立場であれば働きかけができるかもしれないと考えたんです。
科学技術会議が発足したのは1959年ですが、ほとんど権限はなく内閣の諮問機関という位置づけでした。私が引き受けた時も、「自発的にやってもらっては困る」と言われたぐらいですから。
ですが、新しい千年紀に入る時期、当時の小渕恵三総理が「ミレニアム・プロジェクト」を掲げられた際、井村先生は科学技術会議議員の立場で構想をまとめておられますよね。
井村提言に至るには伏線があります。普段から準備をしておかなければ諮問されても急に答えることはできませんから、常々遅れていると感じていた日本の生命科学分野の振興について検討する私的な委員会をつくって議論していました。
この話が当時の小渕恵三総理の耳に入った結果、ゲノム、発生・再生、植物、バイオリソースという重点分野で研究センターをつくるべきという我々の構想がそのままプロジェクトに盛り込まれたわけです。最終的に理化学研究所に4つのセンターができ、理研が物理化学から生命科学に舵を切るきっかけとなりました。

当時の政界と学術界には
顔を合わせて議論する場があった

当時の総合科学技術会議には発信力があり、科学技術政策の立案、調整にも大きく関わっていました。
井村それにはいくつか理由がありますが、熱心な政治家がいたこと、大臣たちと頻繁に議論する場があったこと、常勤の議員が4人いたことが大きかったと思います。
科学技術会議の機能が強化されたのは、1990年代初頭に「失われた10年」と呼ばれる時代に突入した際、科学技術の振興を推進し「科学技術創造立国」を目指すとして、1995年に議員立法で科学技術基本法が制定されたことが背景にあります。法律を受けて、1996年に研究費の拡大やポストドクター1 万人計画を盛り込んだ第1期科学技術基本計画が策定されましたが、私は京都大学総長としてこれに携わりました。
この一連の動きの中で、熱心に活動する有力議員がおり、総合科学技術会議は総理のほか当時の大蔵大臣や文部大臣も出席して、月1回、会合を開いていました。

大臣が参加されるのですか。
井村1時間の会合のうち30分は話題提供をし、例えば、当時進行中だったヒトゲノムの解読が何に役立つかといったテーマで議論をしていました。最新の科学技術について、学術界と政界が議論をする場があったことは非常に重要な点だったと思います。
前述の国立大学の施設の老朽化問題についても、最終的に多額の予算がついたのは、そこで築いた人間関係が役立ちました。
常勤議員がいたというのはどういうことですか?
井村学術界から3人、産業界から1人の常勤議員を2000年からつくったんです。だからよく議論もでき、新しい学問の動向にキャッチアップしていました。また、大学教授を招いて最新の話題について勉強し、それをもとに次の概算要求の重点を決めて各省に提案。各省で検討したものを評価し、最後は財務省と話をしました。
なるほど、科学技術会議は日本全体の学術政策とリンクし、政策提言の場になっていたのですね。当時は政界と学術界が健全なタッグを組んで日本の科学技術について"一緒に"考えていたのに、この25年間で様変わりしましたね。産業構造の中で大学が果たすべき役割を"国が考える"という方向に来てしまったと感じます。
井村イノベーションを生み出せという要求ばかりです。大学がイノベーションを起こし、その結果によって社会に貢献していくことは大切ですが、同時に、基礎科学の伝統を継いで発展させていかなければ大学にも日本にも未来はありません。
産業界との関係も同様ですね。役割を分担して連携できていたものが、どちらかがどちらかの肩代わりを求めるようになりました。
井村連携が崩れてしまった一つの要因として、1990年代に入って多くの企業が研究をやめたことが大きいですね。以前は自前の研究所を持つ企業が多くあり、基礎的な研究も行っていたものです。
大学でトレーニングした人たちの活躍の場となり、研究を続けるモチベーションにもなっていました。
井村理由は複合的なものでしょうが、一つには長引く不況の中で、株主の声が大きくなったことがあるかもしれません。基礎研究なんかせずに手っ取り早く儲けろ、と。
これも大学だけでなく、日本の未来に関わる懸念材料ですね。

大学院の充実は
研究大学たる京都大学が取り組むべき課題

最後に、これから京都大学に対してどんなことを期待されますか。
井村実は懸念していることがあって、戦後の学制改革がはたして適切であったのかどうか、今になって気になります。かつて旧制高校3年、大学3年、医学部は4年、合計6年間だった高等教育を4年に短縮しました。私は旧制最後の世代で、高等学校の3年間でみっちりと必修科目を学んだものですが、それらを端折ってしまった。一方で、学問は急速度で進化している。影響が出ないはずがありません。
たしかに、学部の4年間でいったいどれだけのことを教えられているでしょうか。
井村戦後の教育改革はアメリカの影響を受けており、State University(州立大学)を参考にして、評論家の 大宅壮一が「駅弁大学」と揶揄したように、1県1大学を設置しました。このことで全体の底上げを図ることはできたけれど、さらなるレベルアップにはつながりませんでした。State UniversityをまねるだけでResearch Universityのことはあまり考えていませんから。
アメリカの場合は、アイビー・リーグという前提があってのState Universityです。
井村しかもアメリカは大学院が充実しています。一方の日本は、企業は"色がついていない"若い人を採用したい、官僚も大学院を出てからでは次官になれない、ということもあって大学院についての議論を切り捨ててしまいました。
にもかかわらず、1990年代になって大学院重点化に向かったことは無理な話だったということですね。私は中央教育審議会の大学院部会長を務めていますが、教育の質的向上など課題が山積しています。
井村一貫して議論していないからですね。私自身は、戦後の学制改革や大学院軽視による高等教育の弱体化を解決するには、大学院とポスドクの強化しかないと考えています。研究大学たる京都大学が率先して取り組むべき課題です。
学位人材の活用については大きな課題です。日本はポスドク活用のための制度を整備せず、継ぎはぎしてきただけだったために矛盾が生じています。学生からすれば、キャリアパスとして見えてこなければ研究者への道を選ぶことをためらってしまいますから。
加えて、大学がいくら学位人材を育てても、企業が積極的に採用してくれなければ彼らの行く場所がありません。
井村研究をやめた企業は自分たちで育てることはできないのですから、今後、変わらざるを得ないでしょうね。
その通りだと思います。創立100周年以降に顕在化してきた、大学の自治や教養教育のあり方、ガバナンスや産官学の関係性といったさまざまな課題は、今、我々が直面している課題でもあります。25年の間で劣化している面もあり、大学院充実など京都大学の任は重大なことばかりですね。
井村要因はさまざまでしょう。政治が悪いとばかり言っていられませんから、創立125周年を機会に変えられるところから変えていっていただきたいと思います。
私自身、初めて聞く話も多く興味深かったです。間近に迫る創立125周年に向けての心構えを得ることができました。
本日はどうもありがとうございました。


(開催日:2022年1月)